鳴門市議会 2021-06-16 06月16日-04号
一言で申せば、鳴門市の水環境は昭和30年代から40年代、私の記憶では中心街の多くは旧の塩田跡で、当時は入浜式塩田から流下式による塩田がなされていた頃と記憶いたしております。そして、私は県外で在住した約10年間、徳島県を知らない方でも鳴門市は御存じの方も多くおられました。
一言で申せば、鳴門市の水環境は昭和30年代から40年代、私の記憶では中心街の多くは旧の塩田跡で、当時は入浜式塩田から流下式による塩田がなされていた頃と記憶いたしております。そして、私は県外で在住した約10年間、徳島県を知らない方でも鳴門市は御存じの方も多くおられました。
次に、鳴門市の発祥でもございます塩づくりの文化についてですが、これも幾度か同様の質問を行い、途中になっていますが、私が提案しました全国でも事例がない流下式塩田のコンパクト方式で実際に塩をつくることからスタートすればの問いかけには、市長からの御回答は官民一体で検討するとの御答弁がございました。私もこの件に関しては全く同感でございまして、このことには多くの期待を寄せております。
戦後になり、製塩技術の発達によって、入浜式塩田は流下式塩田に転換され、さらにイオン交換膜法による工場生産が実用化され、昭和40年代後半には、塩田は廃止されました。 こうした歴史の貴重な資料が三木文庫には収蔵されており、本市にも、国指定重要文化財の福永家住宅がございます。
塩にまつわる鳴門市の歴史文化を振り返れば、入浜式さらには流下式、イオン交換膜、専売法が解かれ、今はほとんど外国の塩が精製されておりますが、先般NHK朝のドラマ「まれ」で、初代の入浜式塩田で海水から塩を精製する姿を懐かしく思い出しました。 当時の私の生まれた高島では、塩田家と労働者の対立もあり、実質私の祖父に当たる東谷万作という労働争議の先駆者が果たしたそうで、歴史が物語っております。
鳴門市においても、終末処理場は松茂町の海岸に近い地帯にあるため、津波や液状化の被害は十分に考えられますし、地震によって地盤隆起や地盤沈下が起こると、自然流下式の場合は致命的な被害を受けることとなります。 さらに、下水道は復旧に数カ月以上かかるのに対し、合併浄化槽は地震などに強い素材であることや、ブロア以外に機械類が少ないなど、復旧も下水道に比べてはるかに早い対応が可能です。
一部流下式塩田の資料も収集してございますが、その大半は入浜式塩田の資料でございます。 ところで、入浜式塩田の資料につきましては、既に鳴門の製塩用具として国の重要有形民俗文化財に指定され保存処理のうち、鳴門市で保管管理をいたしておるところでございます。これらの資料ではなかろうかというふうに思っておるところでございます。
その塩田が今や先ほど申しましたように、流下式塩田からイオン変換樹脂膜の開発により三百年を超える歴史を閉じたわけでございますが、その栄えた塩田十ヵ国が寄り合って現代の進む方向、また過去にいろんなことがあった。
第二番目として都市計画地域の開発についてでありますが、鳴門市の過去を支えてきた事業の一つである製塩業が化学技術の発展進歩にともないまして、入浜式塩田から流下式塩田に改良され、次いで、近代化学の粋を集めたイオン交換樹脂膜を使う電気透析法による濃厚塩水製造に転換し広大な塩田が不要となる鳴門市の名物であった塩田も都市計画事業の進展に伴い、広大な埋め立て地となり東に運動公園、北に教育大学、西に住宅地、商店街
それからアッケシソウについてでございますが、お話がありましたとおり、非常にこのアッケシソウは北海道の厚岸町で発見をされた、我が国の、ということで五十年の十二月に初めて鳴門中学校でこれを採取、種を撒きまして、入浜式塩田時代は塩田に非常に自生をしておった、ということでありますが、あの流下式になってからは絶滅をしたというふうに言われております。
当市の塩田は、慶長四年、初めて塩田が開拓せられてから、昭和二十八年から三十二年頃に「流下式」に転換せられるまでの間、約三百六十年間、「入浜式」塩業が行われていたことは、御案内のとおりであります。 この鳴門の塩田で活躍していた入浜式製塩用具は、塩業史の資料としてだけではなく、民芸品としても一級品の価値がございます。
一戸でございますがこの一部になぜ入り浜式の塩田跡とか、流下式のそういうものを残さなかったのか、あまりにも自然環境の破壊がひどいと思います。 また、このたび計画をしております衛生センターの不燃焼物処理場の問題も同等の感がいたしておるのでございます。 ひとけのない山奥、これは誰しも考えて、人がいないんだから迷惑はないだろう、この思いつきは非常にいいかと思います。
鳴門市の主要産業でございました製塩業を育てた塩田が製塩技術の進歩によりまして流下式からイオン交換樹脂膜製法すなわち化学製塩に切替えられまして昭和四十七年鳴門市の塩田は全面的に廃田になりました、慶長二年を起源とするといわれた広大な鳴門の塩田が三百七十五年の歴史にここに一大転換期を迎えたわけでございます。
というのは、その上に流下式塩田という事で償却資産をこしらえておりまして、その償却資産から税を取るのだというような事で土地の価格よりもむしろその上の粘土板でこしらえておりました。それの償却資産として課税しておりましたのが実態でございます。